ちょっと気になっていたこと
少し前に、とある女優さんが、改元にちなんで『陛下、ご苦労様でした』と発信したところ、ネット上で、目上の方には『お疲れ様でした』が正しいのでは?と
の声が大きかったとのこと。
それに対し、国語学者がそもそも、そんな目上の人に対しての言葉の使い分けは、古来の日本語にはなかった!と書かれていて、モヤモヤが晴れたように思いました。
目上の人に『ご苦労様でした』は正しくない、と言うのはそんなに古くないんじゃないかなと思っていましたが、どうやら『お疲れ様でした』は芸能界で使われ、いつの間に『お疲れ様でした』が
退勤の挨拶の主流になったことと、目上の人に『ご苦労様でした』と言うのが敬意を表していないとの一部の人が言い出したのが、広まってしまったようです。
私も『お疲れ様でした』と言うように言われた派でしたが、結局、みんながそうしているから正しい、ぐらいの根拠だったのではないのかな?と感じました。
それと共に思うのが、結構この手の『みんながそうやっているから正しい』ことが溢れているように思います。
『お疲れ様でした』が使う人が多いから『お疲れ様でした』がいつの間か正しい用法になってしまったのですね。
これ、ビジネスマナーには沢山あるのでしょうね。
金融機関で、ハンコの斜めお辞儀押しをしないで、上司に怒られた!とか、まだそんなことを目にします。
どうもすごく気になってしょうがないのが、周りの人がそうだからと、多数派が
いつの間か正しい!とされることが多いように思います。
そうすると、物事本来の意味、成り立ちから離れたところで、正しいことが形成され、いつのまにかそれが正しい!となってしまう。
もう一つ感じるのが、正しい、正しくないの二択論争。正しくない!ということで一斉に叩くことが多いです。
この発信は退位を労って言ったのだな、と気持ちは充分伝わっているのに、正しい、正しくないの二択に持っていってしまう。
何でその発信に込められている気持ちを汲み取らないのか、さびしい限りで、言葉に込められた気持ちをどうして感じないのかなぁと、とても気になります。
人が発信したものから、その人が思った気持ちを共に感じ、暖かな思いを共有する、それが本来の言葉の使い方のように思います。
清らかなものを(令)共に感じる(和)が始まりましたが、年号からもわかる通り、私たちは言葉に込められた気持ちを古来から共有し、使い続けてきたのではと思います。
人の気持ちを感じ、言葉から汲み取り、共有することを古来からやっていたのではないでしょうか。