倉田百三「出家とその弟子」を読んで
「近頃はさびしく感じられてしょうがないのです。さびしく感じてもよろしいのでしょうか、お師匠様」
「さびしいのが本当だよ、唯円。さびしいときはさびしがるよりしかたはないのだ。おまえのさびしさは対象によって癒されるさびしさだが、わたしのさびしさはもう何物でも癒されないさびしさだ。
人間の運命としてのさびしさなのだ」
「おまえの今のさびしさはだんだん形が定まって、中心に集中してくるよ。そのさびしさをしのいでからほんとうのさびしさが来るのだ」
「さびしいときはさびしがるがいい」
「出家とその弟子」は倉田百三が1907年、27歳の時に書いた作品で、戯曲である。(お芝居の台本)慣れていないと読みにくいが、この本は慣れれば読みやすい文章である。
「さびしさ」がテーマである、珍しさがある。他者の作品で後ろを支えているものを表面に持ってきたように感じる。
父母(左衛門、お兼)、親鸞の子の善鸞、善鸞を支える朝香、唯円の恋人のかえでである。左衛門の業(さびしさ)、善鸞、唯円、親鸞の「さびしさ」が語られる。似ているところもあるが、「さびしさ」の質の違いを百三は巧みに書きわけている。
「さびしさ」を「孤独」などの言葉に置き換えてみるのも良いが、何に置き換えるかは読者に任せたい。
物語は唯円の恋につながっていく。唯円の恋も物語のもう一つのテーマであるが、やはり注目したいのは、「さびしさ」である。
この物語では、親鸞が唯円を教え、唯円が善鸞を教える形で、親子で立場が逆になっているのが興味深い。
ところで、百三の思いか、まだ封建的な形ではあるけれども、それぞれ女性が男性を支え、物語では重要な役どころとなっている。
大正期の自由さが現れているのだろうか。
面白いのが、解説の谷川徹がいくつか項目を上げて、否定的に解説しつつ、最後にロマン.ローランの最大級の賛辞で締められている。なぜか。私は「出家とその弟子」の中に流れるキリスト教的な救いの思想が流れているように思えるのである。後は読者の判断にお任せしたい。